先日,母が救急車で病院に運ばれた.
命にかかわる病気ではないと言われているが,国指定の難病.高齢で他にも病気を抱えているので,全く安心できない状況だ.地元の総合病院では手に負えないとのことで,近くの医大病院に転院することが決まった.
加えて,父は要介護認定を受けていて現在も歩行が困難.歩けないことはないが,何かと不自由している.
私は両親とは同居しておらず,仕事の関係で実家から離れた遠くの街に住んでいる.
地元は親族や兄弟が多く住んでいるため,両親は「昔から住み慣れた土地を離れたくない」と常々話していた.
幸い叔母たちが時折様子を見に行ってくれているので,とても助かっている.
今回,こんな状況に至って「親はいつまでも生きているわけじゃない」という事をいまさらながら強く実感した.当然,理屈ではわかっていたが,今回母が入院して初めてそのことを強く実感すると共に,
・親に対してこれから私が出来ることはなんだろうか?
・自分もいずれ同じ道を辿る.そう考えると,残りの人生をどう生きるべきか?
このことを考える契機になった.
私は今まで仕事や知識,スキルのことばかりに目を向けた人生だった.もちろん,仕事をする上でまだまだ勉強が必要なのも確かだ.
だけど,もうこれ以上アクセルを踏まなくていいのではないかと思うようになった.
研究の世界では,第一線で活躍するのは20代〜40代が中心だ.50代になったら自ら発表する機会は減り,学会や研究会の開催運営や論文集の編集委員など,どちらかというと裏方的な仕事に軸足を置くことが多い(世界的な業績を残すような研究室だと話は別だが).
私はそのような気持ちの割り切りができず,まだまだ若いものには負けんという気概で研究をしてきた.だけど,そろそろ裏方の仕事を重視すべき時期がやってきたのかもしれない.
昨日見たYouTubeの動画↓で,竹中平蔵とひろゆきの議論を見た
最後に竹中平蔵が
「若い人にもっとやってほしいんですよ.いつまでも私のような年寄りがやってる時代じゃない.」
「私たちの世代はご隠居として,たまにうるさいことを言うくらいでいいと思っている.」
と言ってた.おそらく本音だと思うが,それは何も政治や経済の世界だけじゃない.研究の世界でも若い人が中心になるべきで,私のような50代は一線を退くべきなのかもしれない.
私は今後どうするか.
月に数回は実家へ行って,身の回りの世話や親の様子を見てこようとと思う.遠いので,車の移動だけでもかなりの負担になる.自分の体力や気力も維持しなけれならないし,時間も捻出しないといけない.
そのため,今後は勉強する内容も必要最低限の狭い領域に絞り,研究の第一線からは退くつもりだ.本音を言えば介護退職も考えたが,子供の学費がこれから必要になってくるし,家のローンもかなり残っている.そう簡単に今の仕事を辞めるわけにはいかない.
最低限必要な研究業績は残しつつ,他の仕事も出来るだけ効率化する.学会出張や国際会議参加の回数を減らして,その分,両親や家族のための時間をもっと増やそうと思った.
若い頃は,がむしゃらに自分のことだけ考えて業績アップに勤しむのもアリだろう.だけど,私の年齢,私の両親や家族への影響,若い同僚たちへの影響などを考えると,いつまでも若い頃のようにやっていたのではダメだ.歳相応の役割がある.
今回そのことに気付かされたような気がする.
また,サイトを検索していたら,こんなページをみかけた↓
「親失いの一人前」とはなかなか鋭い言葉だなと思う.
人は,親の死を間近に感じることによって人生観が大きく変わるというが,私も例外なくその一人だ.
これまで,このブログはどちらかというと,若い頃のようながむしゃらに勉強した内容をメインにしていたけど,大幅に方向転換するかもしれません.