私が博士を取得するまでの紆余曲折を記事として残しておきます.
以前,別のブログで記事として書いた内容ですが,そちらのブログを閉鎖したのでこちらに移行するつもりです.一気には大変なので少しずつ移行します.
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14. 最初のフルペーパー
先ずは日本機械学会論文集に投稿した.和文で8ページ.分量としては十分だ.査読に1年ほどかかったが,結果は「不採録」だった.
査読者のコメントによると,私の実験結果の考察に関する矛盾点や結果の誤りなどを極めて論理的に指摘された.機械学会の査読は厳しいと噂では聞いていたがさすがに緻密だった.
それで,内容を大幅に見直して再検討した.実験内容も大幅に変えてすべてやり直した.前回の査読者の指摘から,目新しい手法ではなく古典的な手法を用いた方がいいと判断し,分析そのものをすべてやり直した.
研究の意義や背景もすべて書き直した.引用した論文もかなり増えた.医学・生理学の論文も引用し,すべて書き直した.文章も出来るだけ分かりやすく,誤解を生まないように注意して執筆した.
今度は,計測自動制御学会の英文ジャーナル SICE JCMSIに投稿したが,これも査読に1年近くかかった.
届いた結果は「不採録」だった.
この2回連続の不採録はかなり精神的に応えた.それも査読結果が戻ってくるまで,どちらも丸1年を要したことだ.ぶっちゃけ言えば,不採録なら不採録でいいから,もっと早く結果を出してくれと思った.
さらに結果を整理し直して,データも整理し直して論文をすべて書き直した.この時はかなり苦しんでいた時代だと思う.国際会議の査読論文は問題なく採録されるのだが,ジャーナルがなかなか通らなかった.
今回主査となっていただいた先生は,私の専門とは大きく異なる.だから,専門的な見地からの指導というのは期待できない.
だけど,それは仕方ない.研究テーマは自分の責任で1から全面的に見直した結果だ.もしこのテーマでフルペーパーが不採録になったとしても,学位が取得できなかったとしても,すべて自分の責任である.つまり,頼れるのは自分一人だと言い聞かせた.
私が研究者として独り立ちしたのはおそらくこの時だろう.フルペーパーが通らず苦しんでいたこの時37歳.研究者として独り立ちするには10年遅かったと言える.それだけ私は周囲の優秀な研究者に比べて,能力的に劣っていただけでなく,精神的にも未熟だった.
そうして,最初のフルペーパーの採録が決まったのは2012年のことだった.39歳の時である.
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