
ふと思い立つところがあって,少しだけ親鸞聖人と浄土真宗について調べた.
親鸞聖人について一番驚いたのは,自分はどんなに修行したところで煩悩が消えなかったと自分で認めてしまったところ.
古今東西,多くの宗教家がいますが,こんなことを素直に認めた人などいるのでしょうか?
自分は皆と同じ凡俗であるとし,それを前提とした上で,
「厳しい修行で煩悩を消し去ることのできるスーパーマン」
を対象とするような救いの道ではなく,
「煩悩に塗れたごくごく普通の人が救われる道」
を説いたのは,他の宗教家と全く異なるところです.浄土真宗と言う前に,まず親鸞という人物にとても興味を抱きました.
私の職場でも,若い社員の仕事ぶりをみてると,考えが甘かったり,世の中をナメてるようなところがあって,説教したくなることが多々あります.実際,私の先輩などは頭ごなしに説教します.
その様子を見ていると,先輩は自分の若い頃を引き合いに出し,自分はこれだけ頑張ってこれだけ凄い仕事をしてきたんだという「仕事の功績」によって説得力を持たせようとします.
だけど,若い社員からするとただの自慢話にしか聞こえず,上から目線で講釈を垂れてるという印象しか抱きません.よくある話ですよね(苦笑)
その様子に先輩はいつも溜息ばかりで,その中間にいる私はいつも愚痴の聞き役.
先輩だって若い頃は完璧だったわけじゃなく,たくさん失敗をしただろうし,迷いも悩みも多かったはず.だけど,そんな自分の弱みを絶対言いたくないのでしょう.
気持ちはよく分かります.私もそうですから.
いくら修行しても煩悩が消えないと親鸞聖人が正直に言ったのは,いわば自分の失敗を公言したようなものです.とても勇気ある行動です.
私がもし親鸞聖人の立場だったら,そのような失敗は絶対口にしないでしょう.
煩悩を消し去り,悟りを開いたフリをして比叡山に留まり,偉そうに上から目線で講釈を垂れていたかもしれません.
社会的地位がいくら高くても,そんなお坊さんの講釈など誰も聞く耳を持たないでしょうね.化けの皮などすぐ剥がれるものです.
会社組織だって似たようなもの.
歴史上の偉人と我々を単純に比較することなどできないかもしれませんが,人にモノを伝える,教えるというその一点のみで考えても,親鸞聖人の生き方には重要なヒントがあるように思えます.
今後も親鸞聖人の人生を追っていきたいと思います.
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